🔪我與我弟的戀愛修羅場🔫×上
這是一場兄弟鬩牆的故事,一件狩衣所引發的人倫悲劇。
※一期三日、厚三日(下篇預定)
※圖多,請注意。
作為一期三日沼民多少都知道,三日月本身刀鞘是金梨地菊桐紋蒔絵糸巻太刀拵,而非遊戲裡的陰晴圓缺;同一款式的金色穗子頭飾,亦是被用來創作的題材。
三日月身穿的服裝,其實也有一番蹊蹺在。
蹊蹺不在狩衣,而在狩衣上的紋路:紗綾形。
「紗綾形」是從什麼時候出現在日本的呢?
世界大百科事典 第2版の解説
さやがた【紗綾形】卍(まんじ)つなぎの一種で,卍をななめにつらねた連続模様。紗綾(さや)は4枚綾からなる地合の薄い絹織物。その地紋に用いられたのでこの名があるという。この系統の模様は名物裂(めいぶつぎれ)に多くみられ,おそらく明時代の中国から伝わったものであろう。日本では,桃山時代ころからの染織品の模様に多く用いられている。ことに江戸時代には綸子(りんず)の地文はほとんどが紗綾形で,これに菊,蘭などをあしらったものが,紗綾形綸子として非常に多く行われた。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
紗綾形
さやがた模様の一つ。卍(まんじ)つなぎ文の一種で、端正な卍つなぎを菱(ひし)状にゆがめた形。菱万字ともよぶ。紗綾という絹織物の地文として多く用いられたところからこの名がある。桃山時代以後おもに綸子(りんず)の地文に用いられた。また小紋や唐紙、さらには神社建築の装飾としても広く用いられている。[村元雄]
和服用語大全的解釋
紗綾形とは【読み:さやがた】
卍の字を崩して組み合わせ、連続模様としたものです。桃山時代に中国から伝わった織物、紗綾の地紋に使われていたためこの名があります。品格のある文様なので武家に好まれました。白生地などの地紋にも今も広く使われています。
……族繁不及備載,總之就是:「紗綾形是在桃山時代由中國傳入日本的」
(「桃山」指的是豐臣秀吉所建的「伏見城」。關於伏見城,在《文祿三年,我們所在的京都伏見城》概略介紹過)
當時,日本豐臣政權與中國明朝、朝鮮王朝之間爆發了一場戰爭:「萬曆朝鮮之役」(明朝萬曆三大征之一),普遍認為紗綾形便是由此傳入日本。
除了桃山時代以外,也有一部份認為是在桃山之後的江戶時代(1603年—1867年,又稱德川時代)初期才傳入日本。
百科事典マイペディアの解説
紗綾形【さやがた】くずした卍(まんじ)を連続させた模様。江戸時代舶来の絹織物の紗綾の地紋に用いられたのでこの名がある。吉凶ともに通用し,染織品の模様に多く用いられ,特に綸子(りんず)の地紋として知られる。
…では、なぜ私達は紗綾形と呼んできたのでしょうか。それは江戸時代初期に中国から輸入された織物の多くに、紗地に綾組織で卍繋ぎが織られていたことに由来しています。…
青幻舍(藝術相關出版社)的美術工具書,亦將紗綾形的出現和使用列入「豐臣時代—德川時代」:
無論是桃山時代或江戶時代,都在室町時代(1336年—1573年)之後。
「——也就是說,三日月在足利家根本不可能穿著這身紗綾形狩衣!只可能是在豐臣家之後才穿上的!!!」
這位先生你出來做什麼呢
——好了,這下問題來了。
三日月不擅打扮、不追求流行、不在乎穿著——這身顯然很有品味的衣服,到底是哪來的呢?
某位被前主影響、又有相同穗子裝飾的人一下就有了濃厚嫌疑
※此推即是引起近千轉發及一期三日沼民討論的開端。
一期「咦?是我嗎?過去到底是……(*ºωº*)」
然而就在一期三日沼民各種妄想爆發時,突然有人發現了一件可能會造成人倫慘劇的事……
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